水が脂質の構造を解き明かす? -未知の異性体の発見とその機能を紐解く研究に貢献-

水が脂質の構造を解き明かす?
-未知の異性体の発見とその機能を紐解く研究に貢献-

 国立大学法人中国竞彩网工学研究院の竹田浩章研究員、Bujinlkham Buyantogtokh大学生、津川裕司教授らの共同研究グループは、質量分析(注1)において水とラジカル生成物を用いたフラグメンテーション(注2)の技術を開発し、多様な脂質分子に含まれる極性頭部の構造、脂肪酸の炭素数と不飽和度、および二重結合の位置を同時に決定できる新しいノンターゲットリピドミクス(注3)手法を構築しました。また、本手法を霊長類であるマーモセットの脳に適用することで、二重結合の位置が異なる異性体を正確に織別し、膨大な数の分子種の影に潜む新たな脂質分子の存在が明らかになりました。分析化学と情報科学の融合研究によって達成された次世代リピドミクス技術は、脂質代謝を切り口とした生命科学研究の発展に貢献することが期待されます。

本研究成果は、Springer Nature が発行する Communications Chemistry(5月13日付)に掲載されました。
論文名:Dual fragmentation via collision-induced and oxygen attachment dissociations using water and its radicals for C=C position-resolved lipidomics
著者名:Hiroaki Takeda, Mami Okamoto, Hidenori Takahashi, Bujinlkham Buyantogtokh, Noriyuki Kishi, Hideyuki Okano, Hiroyuki Kamiguchi, Hiroshi Tsugawa
URL:https://doi.org/10.1038/s42004-025-01525-y

研究背景
 脂質は糖質やタンパク質と並ぶ三大必須栄養素の一つで、細胞膜の構成成分やエネルギー源、シグナル伝達物質としての役割を担うなど、生命機能に重要な役割を果たしています。一般的に脂質と言えば、健康診断で検査されるようなコレステロールやトリグリセリドのほか、魚油に含まれるドコサヘキサエン酸(DHA)などが広く知られています。一方、例えばトリグリセリドのなかには、炭素や二重結合の数が異なる多くの異性体が存在します。さらに二重結合の数だけでなく、その位置が異なる異性体も存在することから、我々の体内には非常に多くの脂質分子が存在すると言えます。
 近年、こうした脂質の多様性を明らかにし、その内生量を定量する様々な分析技術が開発されており、生命科学研究において大きく貢献しています。中でも、液体クロマトグラフィーによる分離と質量分析による検出を組み合わせた「ノンターゲットリピドミクス」と呼ばれる手法が、生体内に含まれる脂質の一斉分析のために広く適用されています。脂質の構造は主にグリセロールなどの骨格に対し、極性頭部や脂肪酸が結合することで形成されます。従来のリピドミクスでは、この極性頭部や構成脂肪酸の組成を解析することで脂質を一斉に分析していました。しかし、構成脂肪酸には二重結合が含まれることが多く、その二重結合の位置に応じて異なる生理機能を持つことがあります。例えば魚油に含まれるDHAは二重結合が6つ含まれ、脂肪酸の外側に位置するメチル末端から3番目の炭素に二重結合を持つ性質からオメガ3多価不飽和脂肪酸と呼ばれます。こうしたオメガ3多価不飽和脂肪酸は主に抗炎症作用を持つことが知られています。一方、メチル末端から6番目の炭素に二重結合を持つものはオメガ6多価不飽和脂肪酸と呼ばれ、その代謝産物であるプロスタグランジンなどを介した炎症性メディエーターとしての機能を持つ分子が存在します。こうした二重結合の位置が異なる異性体は液体クロマトグラフィーでの分離が困難な場合が多く、質量分析で構造を識別することが可能な技術が望まれていました。
 そこで本研究では、水蒸気をマイクロ波放電して得られるヒドロキシラジカルなどのラジカル種と残留した水蒸気を同時に利用した質量分析のフラグメンテーション技術を開発し、ノンターゲットリピドミクスに適用しました(図1)。また、質量分析データの自動解析ソフトウェアであるMS-DIAL 5(注4)での解析プラットフォームを開発し、短時間で正確に解析できる基盤を整えました。さらに、本技術をマーモセット脳の前頭葉、海馬、中脳、小脳、延髄に適用することで、脳における脂質の局在を捉えることを試みました。

研究体制
 本研究は、中国竞彩网工学研究院の竹田浩章研究員(研究当時、現 国立研究開発法人産業技術総合研究所研究員)、同研究院学部4年生のBujinlkham Buyantogtokh氏、同研究院の津川裕司教授、島津製作所の岡本真美氏、同社の高橋秀典氏、慶應義塾大学の岡野栄之教授、同大学の岸憲幸特任講師、理化学研究所脳神経科学研究センターの上口裕之チームディレクターによって実施されました。また、科学技術振興機構(JST) 戦略的創造研究推進事業ERATOJPMJER2101、AMED革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明JP15dm0207001、JST創発的研究支援事業JPMJFR230H、JST統合化推進事業JPMJND2305、AMED新興?再興感染症研究基盤創生事業JP25wm0325071、JSPS科研費(24K02011、24H00043、24H00392、24K21269)、国立がん研究センター研究開発費「質量分析インフォマティクス」2023-A-08、中国竞彩网融合研究支援制度(TAMAGO)の支援を受けて行われました。

研究成果
 本手法では、水蒸気をマイクロ波放電して得られたヒドロキシラジカルなどの反応物を用いて脂質に含まれる二重結合を酸化開裂し、その位置を解析することができます。この方法を酸素付着解離(OAD)と呼びます。これまで二重結合の位置を解析できる様々なフラグメンテーション技術が開発されてきましたが、水蒸気から生成されたラジカル種を用いたOADは、二重結合の位置で開裂するフラグメントイオンが特異的かつ高感度に得られるため、異性体の識別とそれらの定量化が容易になります。通常、コリジョンセル(衝突室)では目的の化合物に応じて開裂効率の高いエネルギー値に最適化しますが、OADでは開裂エネルギーを上げても反応効率が一定の状態で維持されることが分かりました(図2左下)。さらに、コリジョンセル内に残留した水蒸気に脂質を衝突させることで、結合エネルギーの弱い極性頭部や脂肪酸側鎖の組成も同時に取得できることを発見しました(図2右下)。
 極性頭部や脂肪酸側鎖の情報を反映するフラグメントイオンは、衝突誘起解離(CID)と呼ばれる開裂機構によるものであり、本来はアルゴンのような不活性化ガスに衝突させることで実施される手法です。一方、アルゴンは水より重いため、水蒸気では開裂に必要なエネルギーがより高くなります。しかしながら、上述したようにOADでは開裂エネルギーを上げても反応効率が変わらないため、OADとCIDの開裂反応を同時に引き起こせることを見出しました。我々はこの新しいフラグメンテーション方法をOAciDと命名しました(図2)。
 次に、様々な脂質に対して異なる二重結合の位置や数を持つ合成標準品を用いてマススペクトルのライブラリを作成し、解析ソフトウェアであるMS-DIAL 5に自動で構造推定することができるアルゴリズムを実装しました。82種類の脂質合成標準品を分析して得られたマススペクトルを用いてアルゴリズムを検証したところ、熟練解析者の目視手作業によらず、二重結合の位置情報を含む構造を正確に解析できることが分かりました。特に一番検出感度の高いホスファチジルコリンは50 ng/mLの濃度でも解析することができました。生体内に存在する脂質分子中国竞彩网に対して合成標準品が存在しているわけではありませんが、OAciDでは合成標準品が存在しない脂質分子に対しても、どのようなフラグメントイオンが検出されるかを予測することができます。この性質を利用し、我々は標準品が利用できない脂質構造についても理論的に断片化のパターンを予測し、MS-DIAL 5にライブラリとして登録することで網羅的に構造推定ができる基盤を構築しました。
 最後に、開発したOAciDのシステムを用いてマーモセット脳領域(前頭葉、海馬、中脳、小脳、延髄)のノンターゲットリピドミクスを実施しました。388種類のうち124種類は、二重結合の位置を含めて決定することができました。上述したように、二重結合の位置に特異的なフラグメントイオンを生成する開裂方法はいくつか存在します。しかしながら、いずれも二重結合の位置に特異的な開裂を引き起こす反応効率は低く、異性体の組み合わせによってはフラグメントの質量が一致し一意に構造を決めることができません。さらに、液体クロマトグラフィーでは二重結合の位置が異なる異性体が同時に溶出することが多く、複数の異性体に由来するフラグメントイオンが混在したマススペクトルが取得されます。したがって、124種類は従来法と比べて網羅性の高い数字であるだけでなく、データの信頼性も高いものとなります。
 本方法により、二重結合の位置が異なるオメガ3多価不飽和脂肪酸とオメガ6多価不飽和脂肪酸の違いを明確に識別することができました。また、脳にはグリセロール骨格に対して2種類の多価不飽和脂肪酸がエステル結合したリン脂質が特徴的に存在しますが、こうした複雑な構造を持つリン脂質の構造解析も実現し、主に小脳に局在していることが分かりました。さらに、カルボキシル基から数えて9番目の炭素に二重結合を持つパルミトレイン酸(16:1(Δ9))に対し、7番目の炭素に二重結合を持つ異性体(16:1(Δ7))が同時に検出されました(図3)。この異性体は動物細胞においては報告がほとんどありませんが、我々の結果によると脳においては比較的多く存在することが分かりました。
 これらの発見は、OAciDの感度?特異性があったからこそ検出できた好例と言えます。例えば、電子励起解離(注5)と呼ばれるフラグメンテーション方法ではこの異性体を検出することができませんでした(図3)。また、これらの脂質は全てMS-DIAL 5を用いて構造を解析しており、異性体が共溶出する生体試料においても高い精度で構造情報を取得し、その内生量比を算出することが可能であることが示されました。

今後の展開
 本研究で開発したOAciDは、極性頭部や構成脂肪酸の組成に加え、二重結合の位置を同時に解析可能なフラグメンテーション技術です。本手法は、二重結合の位置が異なる異性体を新たに発見するだけでなく、個々の異性体の量比を算出できる可能性を秘めています。このような構造を深く解析するリピドミクス研究は近年注目され始めたばかりで、代謝経路や機能が不明な脂質も数多く存在することが判明してきています。
 本研究でフラグメンテーションとして適用した水は危険性がなく取り扱いも容易であるため、アルゴンや窒素などの頻用されてきた不活性ガスに加えて、水蒸気を使ったフラグメンテーションが次世代のリピドミクスを担う可能性もあります。二重結合の位置を開裂するフラグメントイオンの検出感度は決して高くありませんが、こうした脂質を選択的に濃縮するため、我々の研究グループでは脂質サブクラス群を構造に応じて詳細に分画できる固相精製法(注6)を開発しています。このような前処理技術と組み合わせることで、微量成分を含め多くの脂質分子に対して詳細な構造解析を行い、新たな脂質多様性の解明に貢献することが可能になります。
 加齢や神経変性疾患における脂質の関与は数多く報告されており、近年、霊長類であるマーモセットの脳を用いた研究が加速しています。臓器内でも特に脂質の局在が顕著な脳において次世代を担うリピドミクス技術を適用することで、加齢や神経変性疾患に伴う新たな脂質代謝変容の理解に貢献することが期待されます。
  

図1 本研究の概要
島津製作所の質量分析計LCMS-9030に搭載されているOAD RADICAL SOURCE Iでは、タンクからラジカル源に水が注入され、マイクロ波放電することによって酸素(O)やヒドロキシラジカル(OH?)などが生成される。これらの反応物や残留水蒸気(H2O)はコリジョンセル(衝突室)に導入され、反応物は酸素付着解離(OAD)による二重結合位置での酸化開裂反応、残留水蒸気は衝突誘起解離(CID)による結合エネルギーの弱い箇所での開裂反応を引き起こす。OADとCIDの同時開裂(OAciDと命名した)を利用することで、従来のアルゴンガスを用いたCIDより多くの構造情報(青色で示すフラグメントイオン)を引き出すことができた。
図2 本研究で開発したOAciDの原理
PC 15:0_18:1(Δ9)(d7) とは、極性頭部にホスホリルコリンの構造を持つホスファチジルコリン (PC) に含まれる脂肪酸が15:0(炭素数が15個、二重結合数が0個)と18:1(炭素数が18個、二重結合数が1個)で構成され、18:1の脂肪酸にはΔ9位(カルボキシル基から9番目)に二重結合を含み、かつ重水素が7箇所(d7)に標識されている分子種であることを意味する。橙色と緑色で示す箇所は結合エネルギーが弱く、ある一定のエネルギーを持ったガスと衝突させることで開裂することができる(CID)。CIDでは、エネルギーがどれだけ効率的に分配されるかを規定するパラメータの一つとしてガスの質量が関与するが、アルゴンの質量は約40、水の質量は約18であるため、水蒸気を用いる場合はより高いエネルギーが開裂に必要であることが分かる(右図で100を示す衝突エネルギーの値がアルゴンより水蒸気の方が高い)。一方、青色で示す箇所はCIDで開裂させることができないが、水蒸気から生成されるヒドロキシラジカル種により酸化開裂反応を引き起こすことができる(OAD)。OADの方がCIDより反応速度が遅いため、衝突エネルギーを上げて元となるイオン構造(マゼンダ色)がCIDで完全に壊されない限り、OADでは衝突エネルギーに依存せず一定の効率で酸化開裂を引き起こすことができる(左図でライトブルー色とマゼンダ色が同じ挙動を示している)。
図3 マーモセット脳領域のリピドミクスで新たに解析された二重結合の位置が異なるリン脂質
OAciDを用いることで、新たにパルミトレイン酸と二重結合の位置が異なる異性体(PC 16:0_16:1(Δ9)とPC 16:0_16:1(Δ7))が検出された。電子励起解離(EAD)(詳細は注5のプレスリリースにて紹介)では炭素と炭素の間の共有結合をあらゆる位置で開裂することができ、クロマトグラフィーで共溶出する異性体が存在しないようなユニークな脂質の構造解析には有効であるが、逆に様々な異性体が共溶出するノンターゲットリピドミクスでは不向きである。一方で、本研究で開発したOAciDは余分なフラグメントが存在しないため、共溶出している異性体をマススペクトル上で識別することができる。これは、ライブラリを自動で生成可能なMS-DIALを活用することで実現することができるとも言える。OAciDではそれぞれの特徴的フラグメントが混ざらないため、フラグメント強度に基づき相対的な内生量比を算出することができた。

用語解説
注1)質量分析
化合物をイオン化し、その量を高感度に計測することができる。イオン化しやすい化合物であれば、小学校のプール(約30~40 リットル)に小さじ1杯(約5 グラム)の成分が溶けている程度の濃度でも検出可能である。生体内には1万種類を超える代謝物が様々な濃度で存在し、なかにはそうした低濃度でしか含まれない代謝物も存在するため、質量分析は代謝物を幅広く計測するのに非常に適した技術である。

注2)フラグメンテーション
質量分析装置の内部でイオンを断片化する技術のことを指す。フラグメンテーションにより得られた構造物のことをフラグメントイオンと呼ぶ。脂質分析では窒素やアルゴンといった不活性化ガスと衝突させることで結合エネルギーの弱い箇所で開裂する「衝突誘起解離」が広く利用されており、主に極性頭部や構成脂肪酸の組成を解析することができる。本研究では水蒸気をマイクロ波放電したラジカル種を用い、二重結合位置の酸化開裂反応を引き起こす「酸素付着解離」と、残留した水蒸気による「衝突誘起解離」を同時に引き起こすことで、次世代を担うフラグメンテーション技術を開発した。

注3)ノンターゲットリピドミクス
生体内に存在する脂質の総体を包括的に解析する「リピドミクス」という学術分野において、対象とする脂質を限定せずに網羅的に分析する手法のことを指す。代謝物の全体像を解析するメタボロミクスを脂質に特化したものである。

注4)MS-DIAL 5
多様な脂質分子を自動で解析するソフトウェアを指す。詳細は中国竞彩网プレスリリース(2024年11月28日)「複雑かつ多様な脂質代謝を解明する情報解析プログラム -マルチモーダル質量分析により脂質構造と局在を紐解く-」に記載している。
/outline/disclosure/pressrelease/2024/20241128_01.html

注5)電子励起解離
電子を用いたフラグメンテーション方法のことを指す。炭素間のあらゆる共有結合において、不対電子を持った状態になって切断するホモリシス(共有結合を形成する2個の電子を1個ずつに分配する開裂)により開裂される。特に二重結合位置の前後では、共鳴構造(電子が行き来できる構造)を持つことで安定化するアリル位(二重結合に隣接する位置)での開裂や、二重結合位置からγ位(3番目)の水素を引き抜くマクラファティ転位が、他の共有結合より高い効率で検出されるため、この強度比を読むことで二重結合位置を解析することができる。詳細は中国竞彩网プレスリリース(2024年11月28日)「複雑かつ多様な脂質代謝を解明する情報解析プログラム -マルチモーダル質量分析により脂質構造と局在を紐解く-」に記載している。
/outline/disclosure/pressrelease/2024/20241128_01.html

注6)固相精製法
多様な脂質分子を極性官能基の種類や疎水性度などの構造に基づき分画精製する方法を指す。詳細は中国竞彩网プレスリリース(2024年10月28日)「生命の脂質多様性を紐解く精製技術を開発 -分画と濃縮により未知の脂質分子の発見を加速-」に記載している。
/outline/disclosure/pressrelease/2024/20241028_01.html


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